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リンク・フリーです。


今回の記事も数寄について書きます。

今回も「発心集」からの引用です。






宝日上人和歌を詠じて、行と為す事 (巻六の九)


中ごろ、宝日といふ聖ありけり。

「何ごとをか勤むる」

と、人問ひければ、

「三時の行ひつかふまつる」

と言ふ。

重ねて、

「いづれの行法ぞ」

と問ふに、答へて言ふやう、

「暁には、

明けぬなり賀茂の河原の千鳥啼く今日も空しく暮れんとすらん

日中には、

今日も又午の貝こそ吹きにけれ未の歩近づきぬらん

暮には、

山里の夕暮の鐘の声ごとに今日も暮れぬと聞くぞ悲しき

この三首の歌を、おのおの時をたがへず詠じて、

日日に過ぎ行くことを観じ侍るなり」

とぞ言ひける。


いと珍しき行なれど、人の心の進む方、

様様なれば、勤めも、又一筋ならず。

潤州の曇融聖は、

橋をわたして浄土の業とし、

蒲州の明康法師は、

船に棹さして往生を遂げたり。


況や、和歌は能くことわりを極むる道なれば、

これに寄せて、心を澄まし、

世の常無きを観ぜん業ども、

便りありぬべし。

かの恵心の僧都は、

「和歌は、綺語の謬り」

とて、読み給はざりけるを、

朝朗けに、遥遥と湖を詠め給ひける時、

霞み渡れる浪の上に、船の通ひけるを見て、

「何に譬ん朝ぼらけ」

といふ歌を思ひ出して、

折り節心に染み、ものあはれに覚されけるより、

「聖教と和歌とは、はやく一つなりけり」

とて、その後なん、

さるべき折々、必ず詠じ給ひける。


(中略)


数寄といふは、人の交はりを好まず、

身の沈めるをも愁へず、

花の咲き散るをあはれみ、

月の出て入りを思ふに付けて、

常に心を澄まして、

世の濁りに染まぬをこととすれば、

自ら生滅のことわりも顕れ、

名利の余執尽きぬべし。

これ、出離解脱の門出に侍るべし。





現代語訳


宝日上人和歌を詠じて、行と為る事 (巻六の九)



中頃、宝日という聖がいた。

「どんな仏道の修業をお勤めですか」

と、人が尋ねたところ、

「三時の行ないを致しております」

と答える。

重ねて、

「それは、どういう行法なのでしょうか」

と尋ねると、宝日が答えて言うには、

「明け方には、

夜が明けたらしい、賀茂の河原にそれを知らせる千鳥が鳴いている。

今日もまた一日が空しく過ぎて行こうとしている。

日中には、

今日もまた、午の刻を知らせる貝が吹きならされたことよ。

まもなく未の刻になろうが、こうして時が過ぎて、

屠所におもむく羊のように、刻々と死に近づいているのだろう。

暮には、

山里に鳴りわたる夕暮れの鐘の音を聞くたびに、

今日も空しく暮れてしまったのだなあと悲しくなることである。


この三首の歌を、それぞれ時刻を違えずに詠じて、

毎日が過ぎて行くことを心にとどめております」

と言ったということである。


これはたいへん珍しい行法であるけれど、

人の心のひかれる方面は様々であるから、

その勤行の仕方もまた一通りではないのである。

潤州の曇融聖は橋をかけるという社会奉仕を以て

浄土におもむくための業とし、

蒲州の明康法師は、

渡守りをして人々の便をはかり、

往生を遂げたのである。


まして、和歌は深く道理を極める道であるから、

これを頼りとして心を澄まし、

世の無常を観ずることなどをすれば、

往生の因として有効であるに違いない。

あの恵心僧都は、かつては、

「和歌はいたずらに飾った言葉で、仏道にそむくものである」

と言って、お詠みにならなかったものだが、

夜がほんのり明ける頃、

はるばると湖を眺めなさっていたとき、

霞渡っている波の上を船が通っているのを見て、沙弥満誓の

「何にたとへん朝ぼらけ」

という歌を思い出して、

折りから深く心に感じて、しみじみと情深く思われてからは、

「仏の説かれた教法と和歌とは、なんと一つであったのだ」

といって、それから後は、

心に興をもよおされた時どきには、

必ず歌をお詠みになるようになったのだった。


(中略)


風雅の道というものは、

世俗的な社交を好まず、

身が落ちぶれても憂えず、

春は桜の花があるいは咲きあるいは散る風情をしみじみと味わい、

秋は名月があるいは出あるいは入るのに胸をおどらせるにつけて、

一途に心を集中して雑念を去り、

世間の汚れに染まらないことを專らとするから、

自然と生滅の道理が明らかになり、

名誉利益への執着も止むであろう。

これは、生死を離れて悟りの境地に至る旅の門口なのである。





こう書かれてありました。



なかなかこうは思えないものですよね。


ただ、こう思えるようになりきれれば、

それはそれで幸せなことのようにも思えますね。


(中略)以後のところは、

一度と言わず、何度もぜひ読んでくださいね。




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